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七谷川周辺のたけのこ掘
河原林の神社・寺
河原尻の氏神。
1443年(嘉吉3年)に江州(近江国)坂本の山王権現を勧請して創建と伝わり、明治以前は山王大権現と称していました。
天正年間に明智光秀の丹波攻めによって社殿、宝物等は消失してしまい、その後数度の改築が行われ、現在の社殿は1814年(文化11年)に造営されたものと考えられています。
本殿は二間社流造。社頭の鳥居を挟んで稲荷社、鈴ノ宮社、軻遇突社と天満宮があり、本殿裏側に熊野社、天照大神社、春日社、八幡神社、稲荷社が祀られています。
勝林島の氏神。 勧請の年月は不詳。
江戸時代に書かれた文書の多くには「愛宕神社の若宮の祭神である火産霊神を、当社の祭神とし、それで若宮大権現と呼んでいた」と書かれています。
1873年(明治6年)、神社調査に際し、京都府知事へ神武天皇を祭神とする調書を提出し、それ以降祭神は神武天皇となりました。
現在、摂社として大井神社、末社として大山咋神社、八幡神社、大物主神社、猿田彦神社の四社が祀られています。
国分寺(亀岡市千歳町)の西・約450メートルにある河原尻の御上人林廃寺跡(おしょうにんばやしはいじあと)。
僧寺とは古代の山陰道を挟んで位置し、寺域の南限は僧寺跡と同じ条里線上にあります。
寺域は1町半四方(約165メートル四方)。伽藍は南大門・中門・金堂・講堂が南北一直線上に並ぶ東大寺式伽藍配置。
この御上人林廃寺跡からは国分寺跡と同じ文様の瓦が出土したほか、奈良時代から平安時代にかけての土器類が出土しています。
極楽寺は、1403年(応永10年)在泉希譲の開基といい、1662年(寛文2年)菊隠和尚の代に現在地に移ったと伝えられています。
明治初年の廃仏毀釈の風潮の中で本堂・庫裏の傷みは非常に進んでしまいましたが、現本堂は多くの人たちに寄進された浄財で改築、1911年(明治44年)に竣工したもの。
所蔵されている涅槃図は、「京都府指定文化財」に指定されました(令和3年)。
十禅山、浄土宗西山派禅林寺末。
1682年(天和2年)以前に創建されたとされています。
過去、地蔵盆には本尊の法要として多くの村人が参詣し、夜には盛大な盆踊りが境内で行われていました。
川東4町は、平成30年京都府景観資産に認定されています。
京都府景観資産登録地区の紹介
まほろば・亀岡かわひがし ~古代丹波の原風景~
遠山さんのお宅の主屋は国の重要文化財に指定されています。
大庄屋の大型農家で、普請帳によると寛政元年から同二年にかけて建てられたことが分かっているそうです。
河原林の東の端には、奈良時代から使われていた古道「山陰街道」があります。
河原尻は七谷川の扇状地にあるため、かつて川が氾濫して集落が大きな被害を受けました。
その対策として、家の周りに石垣と生垣をしつらえ、水害対策としてきたことが、一つの景観となっています。
河原尻は四角い山石、勝林島は丸い川石が多く使用されています。
つぶが大きくて色つやが良く、独特の香りがあるのが特徴で、亀岡盆地から船井郡辺りが、気象や土壌に恵まれ、古くから高品質の小豆を生み出す産地となってきました。
公家である大納言は切腹をしないことから、煮ても皮が切れない小豆のことを別名・大納言とも呼ばれるほど高い品質の小豆です。
京菓子など、最高の品質を求められる京都の高級菓子づくりには欠かせません。
万葉の時代から食され、美味しい栗の代名詞となっている「丹波くり」。
終戦後に移植された栗が大半で、生産規模は大幅に減少していますが、今も当町で栽培されています。
品種は大粒で風味の良い銀寄が主流で、秋を代表する味覚として人気があります。
栗の魅力は他の果樹に見られない種子そのものを食することではないでしょうか。
そのため栄養価は高く、ビタミンCやカリウムも多く高血圧予防などにも有効と言われています。
栗料理はおなじみの渋皮煮や栗ごはんもありますが、手軽な茹で栗は食べ始めると止まりません。
栗の実は鬼皮と渋皮で包まれており剥く手間はありますが、栗一個丸ごと属すると最高です。
栗の苗木を移植して早ければ2年で栗が採れます。低樹高の剪定技術が普及しており、大粒の2L・3Lサイズの増加が顕著になっております。
病害虫対策や圃場の草刈りなど苦労もありますが収穫の楽しみも一つの魅力ではないでしょうか。